本宅まで。

2015年12月9日 読書
実に実に遅ればせながら、半解先生の訃報を知った。

「もういらっしゃらない」、というのが、ほんとうに堪える。

なんにせよ「先生」であった。
それも、好きな趣味方面の、大変に魅力的な先生であったから、お話をさせていただいた時間はかけがえのない宝物であったし、これからも忘れえないだろう。

また「趣味の範囲」の先生であったから、厳密に教えを乞う必要がなかったのも、私にとっては幸せなことだった。
2010年にお会いしたのが最後になる。
随分お年を召した、と感じたが、そういうものだ、とわかっていたし、
「今」このように別れを悼む、そういうときがくることも、わかっていた。

はず。

吉川幸次郎先生監修「中国詩人選集」の中で「陶淵明」を執筆されておられ(あれが大学院生の仕事だったのかと思うとすごい。)たので出会ったのが初めて。その後、吉川先生の「陶淵明伝」の解説を書いておられた。
「一海知義」という名前が既にかっこよすぎる!・・・のだが、その当時はひたすら活字を読むのに忙しくて、ざっと通り過ぎていただけで。

文学は趣味でしか続けられん、とあきらめて進学した大学の教養課程の時間割表に、思いがけなく「その名前」を見つけた時の、なんともいえんよろこび(だったのだろう)、家に帰って昔読んだ本を引っ張り出して再読し、この人の話を聞けるんだ、となんだか感激し、そのまま詩集をカバンに詰めて、まだ友人も出来ていなかったから一人きりで第一回の講義を聞きにいき、講義の後教官室に向かわれる先生を追いかけて呼び止めて、「先生! ・・・(本を取り出し)サインしてください」←

そこからずーーーっと、ミーハーにファンだった。

くりかえし、くりかえし、今後もご著書を読み返すことだろう。

本の中に、生きておられる。
それは、とてもありがたいことだ―――ご著書が多くて、まだまだ読む分がいっぱい残ってるし(泣)。河上肇関係はほとんど残ってるがな。

時代性、それから処世、というところで、私も陶淵明のあたりがすっかり好きだ。三国志の時代から、ずっと続いている乱れた世に、どう生きていくか?

興味深い、道しるべのひとつ。

「先生、『泰斗』と評せられるのはどうですか」
「もうその先は『ない』ということやなぁ」
・・・というので、なくなってしまわれたのだろう。

言動が一致しておられたことだ!



陶淵明―虚構の詩人 (岩波新書)

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